「木村信吾」遺稿集《はるかなりわが幻郷》 その2

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           (昭和13年)添牛内小学校5年生(担任:木村慎吾先生)


「木村信吾」遺稿集 はるかなりわが幻郷(1)
【添牛内小学校哀史】から

 星のような子供たちの記憶

北国の遅い春が過ぎて、短い初夏の風が吹きはじめた、ある日の事であった。

 子供達には自習をさせて、少し早めであったが昼食を食べに家に帰った。その日は何だかお腹がすいていたし、校長と教頭は会議のため出張して不在であった。

 僕より年上でベテラン女性教師の菅野先生に見つかって、“木村先生、いけませんよ、時間まで授業しなくては”と叱られたが、その顔は笑っていた。校舎のすぐ前にある官舎の自室に走り、昨日の冷や飯に塩鮭でかっ込むと、本を取りに教室に戻った。当時は職員室で食べることになっていた。

 教室に入った途端、何とも異様な光景が目に入った。何時もはあんなに元気で明るい彼らが、机の上に覆いかぶさる様にして、弁当箱の中が見えない様にして、だまってボソボソと食べていた。

 思いがけない異様な空気の中で、呆然とする僕の顔を、彼等は上目づかいにジロッと見るだけだった。其処ぬは、何事も純粋な生気溢れる笑顔も瞳の輝きもなかった。

 何とも云えぬ怒りに、理性を失った僕は前の席の一人の手を上げて弁当の中を見ると、雑穀の中に僅かなの米粒の入った赤い飯の上に、塩漬けの大根の赤茶けた葉っぱだけが切りもせず、そのまま押し付けて入れてあった。それは、想像もしなかった強烈な衝撃だった。

 愕然として職員室に帰って伊藤先生に話すと、“殆ど貧しい開拓農家なので、米のご飯も満足に食べられず、私が来た頃はもうあたり前みたいになって、白いご飯以外のものを持って来た子は、あの様な食べ方をするんですよ”と彼女にも責任がある様に寂しい顔をして、目を潤ませながらしみじみと話してくれた。

 何処に持って行きようもない、何とも云えぬ不愉快な思いが次第にどうしょうもない腹立たしさとなり、眠れぬ夜が続いた。

 どうしてあの純真な子供達が、まるで野良猫のような目をしてキョトキョトし乍ら食事をしなければならないのだろうか。

 確かに彼らの家は貧しいかも知れない。それは彼等のせいではないし、又少しも恥ずかしい事ではないのだ。

 菅野・伊藤先生に相談して見たが、妙案はなかった。本当に口惜しかった。何とかして親の作ってくれた弁当をあの様な格好をしないで食べるようにならないものかと新米の代用教員は、睡眠不足の夜が続いた。数日後のある晴れた日、朝礼の後すぐに子供達と裏の山にいった。何とかして、此のモヤモヤした気分から抜け出したい気持ちからであった。あたり一面に散った40数名の子供たちは、もうあの何時もの純真な表情でキラキラ瞳が輝いていた。

 その時、うしろで無心に話している子供の会話にドキッと胸を突かれた。“今日の先生のおかずはなんだべな”“魚だべ”“いやテンプラだ”“漬物だけかナ”

 今まで悩んでいた事の結論がその瞬間にはっきりと出た感じであった。

 それは、いとも簡単で至極あたりまえの事であった。“子供達と一緒に食事をする”だけの事が、どうして気が付かなかったのかと、子供達に恥ずかしい気がしてならなかった。

 放課後近所の店に行き、四角い大きな厚いアルミ製の土方弁当箱を買った。顔を見知りの店の親父が“先生がなんで土方べんとう”と怪訝な面持ちで見つめていた。 

 家に帰ると、すぐ麦を一杯入れて飯を炊き、大根の塩漬を無造作に抛りこんだ。

 翌日の昼、大きな“土方べんとう”を持って教室に行った。子供達はぎびっくりして見つめた。

 “今日からみんなと一緒に食べる。背中を伸ばして、胸を張って食べるんだぞ“一瞬シーンと静まり、キョトンとした表情で見つめていた。その時、前の席に居た菅原と云う子が、物珍しそうに“先生の弁当はどんなのだべ“と目玉をクリクリさせながら云ったので、”よし、来て見ろよ“と云うと、彼はカツカツと教壇に上がって来て、横の方からオズオズと覗き込んだ。

 菅原は驚きと安堵と半々の顔に大きな目を輝かせ乍ら、皆の方に向かって大きな声で叫んだ。“先生のも、おら達のものも同じもんだ!”
それを聞いたとたん。見る見るうちに彼らの目に、そして表情に輝きが増していった。僕は目頭がジーンとして、次第に彼らの顔がかすんで行った。

 子供達は、昼食の時が嬉しくてならないと云う表情になって行った。そのうちに弁当を開けると、それぞれ大きな声で”今日も大根“”私は南瓜“などと云い合い乍ら食べる様になった。本当に嬉しい事であったが、併し、先生の方の栄養状態は次第に低下して行ったのであった。

 弁当の件が一段落してホッとしていたら仲田と云う女の子が、時々弁当を持ってこないことに気が付いた。彼女は小柄でやせていて、髪の毛は何時もボサボサで顔はうす汚れ、着ているものは粗末な酷いものであった。

 併し、彼女は物静かで、時折見せる淋しそうな微笑みはとても印象的であった。彼女が弁当を持ってこない理由は、痛い程推察できたが、皆がワイワイ言い乍ら食べるのを横目に見ながら、キチンと自分の席に座っている彼女を見ると、ひどく不憫でならなかった。

 放課後、出来るだけ他の子供達の目につかないように宿舎に呼んで一緒に食事をしたのだが、独身男の自炊だから、何時も塩鮭かやまめの干物に漬物位で、まずいものだったが、彼女は素直に正座して静かに食べていたが、その表情は、”先生ありがとうとってもうまいよ“と語っていた。

 或る日曜日の午後、彼女は父親と一緒に馬車で僕の家に来た。父親に食事の事を話したらしく、丁重に感謝の言葉を述べられた後、いかにも善人らしい重い口調で“懸命に努力はしているのですが、先生ご承知の通り厳しい環境の中で順調に行かなくて子供達にも、つらい思いをさせてすまない気持ちで一杯ですが、何とか頑張って行きたい”と話していた。重厚な風格を持った折り目正しい方であった。逆境に対する愚痴とか、弁解がましい事は一言も云われなかった。その間終始父親に寄り添っていた彼女の姿がとてもいじらしかった。

 次の日から彼女は毎日弁当を持って来たが、それとなく見ると、殆ど南瓜かジャガイモだけだった。名簿を見ると、彼女は結婚して東京の近郊に住んでいる様だが、相当前の事なので其の後の事は不明である。



写真:木村慎吾先生遺稿集「はるかなりわが幻郷」から
提供:福岡市在住 熊江様

次回は「星のような子供たちの記憶」②



「星のような子供たちの記憶」の文中にある生徒名から、昭和14年3月(添小26回)卒業した生徒の5年生の時、担任されたと思います。isao-41


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