「母校のあゆみ」その2

その1では、雨竜川西岸、添牛内(御料地)側から、母校のあゆみを見て来ましたが、その2では、 雨竜川東岸の大学8号側の学校にふれたいと思います。
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           北星小学校第8回生と下級生(大正10年)

 対岸の添牛内の方から一緒に学校を建てないかと相談があったが、村が違い(一巳村・北竜村)渡船による交通などの状況から断ったと伝えられる。大正2年の春、初期入植者の一人である鎌田喜太郎が建築委員長となって、建築資材の切込みがはじまった。

 大学の区画した学校敷地に、4間×7間の1教室が校舎として完成した。5月15日の開校式には雪がまだ60㎝も残っていた。私設教育所の初代教員は、徳島県の師範を出た駒坂高雄で30歳を超えていた。児童数は32人であった。

 学校に維持費は部落の階層から集めていた。入植者の地力に応じて甲乙丙に分けていたが、高台地帯は丙であった。児童1人の家は月20銭、2人は30銭、いない家は10銭という具合で負担した。前年が大凶作でカボチャもトウキビも食べられない実態から、部落の代表者が駒坂に「奉給をまけてほしい」と申し入れたが断られ、次の日には、内地に逃げ帰った。
 
 部落代表が一已村役場へ救済の懇願に行ったところ、村長は始めびっくりして「そんな所に40戸も何時入植した。果たして一已村の中なのか?」と云った調子であったが、とりあえず学校は続け、来春には公立にする事で落着した。

 学校で先生がいない状況下の部落では、前年の3月に弟と2人で入植していた仙丸隆吉を臨時教員に雇い、教育所の授業を続けたが無報酬であった。翌3年8月31日公立の学校として認可された。仙丸が受けた辞令文は次の様なものであった。

 『公立北海道雨竜郡一已村幌加内尋常小学校付属東北帝国大学雨竜演習林2特別教授場代用教員 月俸14円』

 当時の一已村で最寄りの学校は幌加内尋常小学校(沼牛小の前身)で、その特別教授場となったのである。第1特別教授場は雨煙別の大学2号(学林小の前身)にあった。

 教授場の名前がこの様に長かったので、仙丸は子供達と相談して『北星』と名付けたと後に語っている。大正6年、仙丸は勧められて教員免許取得のため、札幌師範学校講習科に入校するため離任した。一時女先生が授業を繋いだが、同年6月浦臼校から小椋泰弥が赴任した。翌7年幌加内村独立を機に北星尋常小学校と改称された。多度志村から引き継がれた校舎面積は40坪で、時の児童数29人であった。

 昭和2年5月、近文第3や納内校で訓導を歴任した仙丸が、3代目の校長として赴任した。翌3年に雨竜川の渡船場に待望の橋が架けられ、交通の便が大きく改善された。翌昭和4年の春、対岸の学校が高等科を併置し、添牛内尋常高等小学校になったのを機に、学校の合併話が進んだ。同年(昭和4年)6月30日北星尋常小学校は閉校し、16年の歴史に幕を下ろした。以後はこの校下は添牛内の区域となった。


写  真:北星小学校第8回生 
校  長:小椋泰弥先生
卒業生:高田幸太郎 鎌田末義 前川政雄 鎌田マサエ 横山ハル 
浦辻(細川)まつ江 川田よく


                             「母校のあゆみ」その3.に続く

 参考資料:幌加内村史 幌加内町史 新幌加内町史
      添牛内小学校「教育目標」 ●じょうぶな子 ●よく考える子 ●心の豊かな子 ●よく働く子

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