『思い出を語る』(座談会)その1

 添牛内中学校閉校記念誌「早雲の滝」から座談会『思い出を語る」を3回に分けてご紹介します。
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・・・座 談 会・・・

・・・出席者・・・
木田 信子 (旧姓佐藤) 昭和27年卒(36回生)
木原 兼之祐        昭和29年卒(38回生)
今井 正昭          昭和30年卒(39回生)
浦辻 征男          昭和34年卒(33回生)
松山 昭子 (旧姓吉田) 昭和39年卒(48回生)
矢箆原政勝         昭和43年卒(42回生)
今井 みゆき         昭和55年卒(64回生)

・・・司会・・・
餅田 弘幸         昭和50年卒(59回生)


司会 きょうは、お疲れのところ、ご苦労様でした。
添中は、昭和22年4月に開校しました。その頃の“生活”の様子を話して下さい。

・・・高く積もった 雪の道・・・

 今井 先ず、道路が良くなったと云うことですね。当時は、何でも馬で用を足したものです。
それこそ、タマと云うものがあって土びきでひっぱたものです
道の真ん中は、固まって高くなり、その上を歩いたものです。朝は道路が無くて、中学生は、小学生の通った後に歩いた記憶があります。
 木原 私は、昭和20年に新富に来ました。深川に着いて、乗り換えて、添牛内に降りました。雪の多いのには驚いた。“はこ・だま”があった。家に入るのに、玄関から、もぐって入りましたよ。
 木田 家の中から外を見ると、歩く足しか見えなかったですよ。外からは、家の中で食事をしているのがよく見えたものです。
 松山 私も、そのようなことをよく覚えている。
 今井 雪道が高くなっているので、バチが家の玄関に流れてきてね。
 浦辻 雪かきした所に馬橇が転がって来て、そのため馬が怪我をすることもあった。

・・・吹雪の日・・・

 今井 吹雪の日は、何せひどかった。1~2週間も続きことがあったね。道がなく、歩いていて電線にぶつかった事があった。
 木原 深名線の汽車が一週間もストップして、部落の人がみんな出て線路を掘り出したこともあった。たしか、昭和22年ころだったと思う。

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 司会 昭和4年に建てられた旧校舎で過ごされた方もおりますが、寒い時はどうでしたか。

・・・寒かった教室・・・

 木田 寒い教室で、風が入って来ました。澱粉袋の紙を破って、穴の目貼りして、寒さを防いだ記憶があります。
 今井 あの頃は、今より寒かった様です。
 浦辻 寒くて、耳が凍傷にかかった人もいたね。
 松山 ストーブの周りには、みんな順番であたった。
 木田 当番がいて、石炭をバケツで、小屋から運んで、ストーブの傍の石炭箱に入れて置いたものです。
 柳原 現在の石油ストーブのと違って、真っ赤になる程もやしたが、近くは熱く、遠いところは寒むかった。
 今井み 寒冷や吹雪のため、時間を遅れての授業日など、どうでした。
 松山 ありましたね。たしか、青旗は1時間、紫旗は2時間遅れで、赤旗は休みだったと思います。


司会 旧体育館での学校生活をお聞かせ下さい。

・・・屋根の除雪・・・

 木田 旧体育館は昭和25年に建てられたと思う。
 今井 増築する前(昭和35年増築)は、廊下が遊び場で、走り廻ったものです。
 屋根の雪下ろしは、部落の出役でした。小学生も、5・6年生になるといっちょう前に働いた。部落の出役にも出たものです。
 いつだったか、旧屋体の屋根の雪割りの時は、驚いた。滑って、川の方へ、10人位、あっという間に吹っ飛んでいった。おっかなかったですよ。

       ・・・・・・・・・・・・・・ その2に つづく  ・・・・・・・・・・・・・・・・・


「添牛内の回想」増田隆さん(2013.1.23)ご紹介の中で、シバレル朝は紫1時間・水色2時間・赤色臨時休校と記憶しているとんこと?
松山昭子(旧姓吉田)さん(48回生)は、青1時間・紫2時間・赤休み・・と記憶しています・・・はたして真相は如何に!!

「添牛内の回想」増田隆さんを今一度見てね!
http://02884095.at.webry.info/201301/article_9.html

・この続きは、来週末になりそうです。乞うご期待!ではでは
      添牛内小学校「教育目標」 ●じょうぶな子 ●よく考える子 ●心の豊かな子 ●よく働く子

この記事へのコメント

kuma-43
2013年12月01日 10:59
座談会の輪の中に同期の浦辻征男(添小-43)は添牛内で頑張っているのですね。読んでいると当時の冬の情景が目に浮かんできますね。色々走馬灯のように頭の中を駆け巡ってきます。次回が楽しみです。

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