仏教興隆を!尾谷卓一薯(添小31回生)

平成38年2月16日発行 尾谷卓一薯 『世界の仏教徒は団結して『仏教興隆を!』をご紹介致します。 (ニチレン出版 定価2550円+税)
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           著者ご紹介

谷卓一(おたに たくいち)
1931年(昭和6年)に、東京に生まれる。
1956年(昭和31年)に、立正大学文学部哲学科卒業。在学中に石橋湛山学長の教えを受けて、立正大学新聞の編集発行に当たる。卒業年の5月に、日蓮宗宗務院に勤務、日蓮宗新聞の編集・発行に尽力。
1958年(昭和34年)に、立正大学大学院社会学専攻課程を終了。
1959年(昭和34年)に得度、1966年(昭和43年)に、興栄山本源寺第29世住職を拝命。
1972年(昭和47年)に、ニチレン出版創立。1980年(昭和55年)に、25年勤務した日蓮宗総務院を退社。
ニチレン出版にて『立正公論』を発行し、のちに『立正公論』を『現代仏教』に改め、2013年(平成25年)に『立正公論』にもどし、1年間発行して終刊。
80歳を契機に山梨県北杜市長坂町の興栄山に移り、現在本源寺院首。ニチレン出版社長。


                目  次

第1部 世界の仏教徒は団結捨て 仏教興隆を
     1.お釈迦様の生涯と、尊い教え
     2.仏教が、日本に伝来するまで
     3.お寺の、役割変遷
     4.忘れ得ぬ恩師との出会いと、決意
     5.お寺を取り巻く現状(1)少子高齢化と消滅可能都市の増加
     6.お寺を取り巻く現状(2)兼務寺院の増加
     7.命の大切さと、仏教者の使命「仏教興隆・寺院興隆」
     8.お寺を、多目的な布教伝達の拠点に
     9.舎利弗・目連の対話
第2部 本源寺の歴史と、仏教界マスコミへの期待
     1.不思議な点が多い、興栄山本源寺の、歴史を解明
     2.興栄寺本源寺の、住職に就任
     3.「二足の草鞋」を履いて、本源寺をの復興を
     4.出版・マスコミの事業(取材させていただいた方々への感謝)
     5.対談・石橋湛山先生を偲ぶ(石橋省三氏に聞く)
     6.太郎・花子の、とくめい対談
第3部 いきがいのある人生 高徳な恩師に導かれて
     1.ご先祖と、幼い日の思い出
     2.希望がもてた、北海道での生活
     3.立正大学で、社会学と哲学を学ぶ
     4.石橋湛山先生と、運命的な出会い
     5.『日蓮宗新聞』の拡張に、全力投球・成功
     6.宗務院を退職し、『立正公論』を発行
     7.『現代仏教』・『立正公論』の終刊
     8.荒れ寺を、多目的な布教伝道の拠点に
 

第3部 3.『希望がもてた、北海道での生活』から、昭和17年から昭和21年まで過ごされて添牛内関係を抜粋し、ご紹介します。 

【文殊から、第三の故郷・幌加内村へ】 (歌志内市文殊)
 私個人とては無意義な文珠炭鉱の生活でしたが、その頃、父の勤めていた炭坑で、大きな落盤事故があり、父は幸い無事でしたが、42名の方が亡くなり、大きな社会問題とした、マスコミでも話題になりました。この落盤事故を機縁に、皆勤賞までもらって元気に働いていた父が、働く意欲を失い、雨竜郡幌加内村添牛内から来たいた泰円澄さんというお坊さんのすすめもあり、「北海道大学の演習林を管理する事務所」に勤務することになり、3年間お世話になった文珠小学校とお別れすることになりました。
 お別れの前日、斉藤先生の家に停めていただき、ご馳走になったあと、
 「これからも一生懸命勉強して、立派な人になってくださいね」と握手され、「今日は、全校の生徒がグランド側の鉄道まで出て、お送りしますから、家族全員で窓から手をふってくだしいね」といわれ、私は耳をうたがうほどビックリしました。文殊駅から列車に乗り込み車窓を見ていると、先生の言葉の通りに文殊小学校の全校生徒が送ってくださり、私達も手を振り、感謝の心で第三の故郷・空知郡幌加内村の添牛内演習林8号にむかいました。
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     【父は北大演習林の事務局に就職 当時の北大演習林事務所】

 この幌加内村添牛内演習林8号事務所じょ周囲は、ほとんど農家ばかりでした。どの家も、広い畠と2頭から3頭くらいの馬がいて、羊・鶏・豚などが飼育されています。
 こうして父は、北海道大学の演習林職員として勤めるようになりました。しかし一般職員なので、宿舎は粗末なものでした。それでも父は、まじめにこの仕事に取り組み頑張っていました。
 幌加内に移る前の文殊では「マリ」という子犬を飼って、可愛がっていましたが、子犬が産まれてすぐに引っ越しとなったため、マリを連れていけず、子犬とともに別送しました。けれども堀加内に到着すると子犬は全部死んでおり、裏の林に埋葬しました。
 家の近くを流れている雨竜川が、私は大好きでした。水はきれいだし、魚もたくさんいて、裸足で川の中に入ると、小さなメダカが集まり、私の足をつっつきます。この川で、はじめて魚釣りをしたと思い、ミミズを採って、釣り針につけようとしたとき、ミミズが苦しそうに身体をくねらせたのを見て、私はミミズが可哀想になり、ミミズを土の中へ戻してしまい、以来魚釣りをしたことは一度もありません。このことが、「私が僧侶になるきっかけ」になったのかも知れないと考えたこともありました。またこの川の周辺には人家がなく、私がどんなに大きな声で歌を唄っても、文句をいう人はおりませんので、ここへきて、出来るだけ大きな声で歌を唄うことが、私の一番大好きなことであり、音楽に大きな興味を持つようになりました。

【添牛内小学校での、思い出】
 やがて母に連れられ、添牛内小学校に入学しました。小さな小学校で、全員で300名ぐらいとのことでした。
 話によると、私のクラス90%が農家の子供で、ワンパクが多く、勉強が好きな子は少ないということでした。最初の授業は国語の時間で、一人ずつ立って、読んでいくのですが、変なアクセントがあって聞きづらく、やがて私の順番になりました。私は、前の学校で勉強していた「ベートーベン月光の曲」でしたので、自信を持って読み上げたところ、先生も驚いたようでした。
 こうして2・3ケヵ月たったところで、級長選挙があり、私が級長に選ばれて、びっくりしてしまいました。私が級長になり、兄や妹が役員になれなかったということで、母は残念がると同時に、兄や妹の家庭での勉強に一段と力を入れる様になりました。このとき、兄は高等科2年生、私は小学校6年生、妹は小学校1年生で、私の受持先生は、虎雄利一先生でした。
 この頃になると、戦争の影響も強く出てきて、田舎の小学校でも地区毎に少年団が結成され、私は6年生だったので分団長になり、最終的には連合団長に任命されました。成績も全優近くなり、同級生はもちろん、上級生からも親しくされ、私しにとりましてはとても幸せなひとときでした。
 こうして小学校の卒業が近くなると学芸会もあり、私は「船の作り方」という国語の読書をし、標準語の読み方ということで好評でしたし、卒業式には、下級生の祝辞に対して、私が卒業生を代表して答辞を読み、喜ばれました。
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         【家の前で、近所の中田夫妻と話す父(右)】      
    
 しかし学校での楽しい生活とは反対に、家庭内では、兄が高等科を終え名寄農学校は進学し、経費がかかるようになったため、豚や鶏を購入し、その飼育係は私にまかされ、忙しい毎日がつづく様になりましたが、新富の分校から、林 繁君と高橋繁子さんという優秀な男女が入って来て、その林君が、私と一番仲良しの友達になり、学校に行く楽しみが加わりました。
 子の頃、担任の先生も虎尾先生から楽本硬先生に変わりましたが、私にとっては、この虎尾先生も楽本先生も素晴らしい先生で、前向きに勉強ができたことに深く感謝しております。
 この頃の私は、家庭生活が大変で忙しく働いてせいか、体は丈夫で神社で行われた村内の相撲大会で、5人抜きの成果をあげ、父が勤めていた演習林事務所の相撲好きな所長さん宅へよばれ、ご馳走をいただくと同時に、お褒めの言葉をいただいたことも、強い印象として残っています。
 さらの大きな問題として、日本の国内に危機感をつのらせたのは第二次世界大戦の成り行きで、はじめは進攻をつづけていた日本軍も、敗色が強くなり、玉砕なた玉砕と東南アジアの国から追い出され、本土決戦のうわさがでて、防空壕を作る人が現れ、私の家でも、裏側の谷にちちが掘りはじめ、私も手伝いましたが、湿気の多いところでヤブ蚊は多く、こんなところで生活はできなと感じておりました。
 通学の際も、地区ごとに団体行動をさせられました。連合少年団長としての私の役割は大変でしたし、私達上級生は、職員室の側に「たこつぼ」と称する穴を掘り、空襲があった場合、職員室にある大事な書類を持って非難することになっていました。一度だけ警戒警報があって、書類を持って「たこつぼ」は駆けつけたところ、すでに逃げ込んだ人々が何人か入っていて、「向こうに行け」と言われ、私は書類を持ったまま、うろうろしていた記憶もあります。
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        【小学校6年卒業生の記念写真  第31回生】
         校長:小越広中先生 担任:虎尾利一先生 

【祖父の死と祖母の疎開、そして名寄農業高校の受験】
 戦局が悪化すると、「東京の人達(尾谷家)が、みんな疎開してくる」という話がきかれるようになりました。とこらが、私を可愛がってくれた祖父は「最近病気がちとなり、休んでいたが、亡くなったようだ」と伝えられ、私は悲しくなりました。それから間もなく一行が幌加内に到着すると聞き、添牛内駅へ迎えに行きました。祖母が私を見て駆け寄り、「大きくなったな、会いたかったよ」といって手をしっかり握ってくれ、私も力強く握り返しました。親戚の人達は、近くの空き家に身を寄せて生活することになりました。
 私が学校帰りに祖母達のところに寄ることが多くなり、家の仕事がきちんとできないという苦情を母から聞くようになりました。また学校帰りに仲良しになったのは一級下で級長の島守 渉君で、彼は、
 「広い牧場で、馬や牛など大家畜をたくさん飼って、大牧場主になりたい」と夢を語り、私は、
 「この地球上に起ることが、なんでもわかるようになり、その中で自分の好きなことをやりたい」
と話し、二人の目標はずいぶん違っていたけれど、話をしていると楽しいので、大の仲良しになってしまいました。こんな状況の中で、広島と長崎に原爆が落とされ、8月15日、ついに日本はアメリカに無条件降伏をしました。すると、
 「女と子供は助けておくが、男は全部殺してしまう」
とか、
 「女はアメリカ兵隊に暴行されるから、男の服装を体につけなければ」
といった嘘が広がり、子供心に私は、
 戦争は恐ろしい、これからは絶対にすべきでない」
と身にしみて感じました。
 冬休みが終わると、いよいよ高等学校へ進学問題で頭が一杯になりましたが父は、「うちは貧乏だから、上の学校には入れない」と語っていました。そのうちに学校の先生からいろいろと進学を勧められ、「コーイチは、東京のうまれだから、普通の高等学校に入れると、卒業と同時に東京へ帰ってしまうから、農業学校なら認める」
と語ったため、兄と同じ名寄農業高校へ進学することになり、入試のための勉強に力を注ぐことになりました。
 こうしたて、大勢の先生のご協力、ご支援をいただき、「名寄農業高校=当時日本最北端の農業高校」に合格し、入学が決定しました。添牛内小学校高等科の卒業式では答辞を読み、受持の高秀先生から、私と一番仲良しだった林 繁君の二人が硯箱を頂きました。箱の中に、
 「人生は勉強の連続也」
と書かれており、
 「この気持ちで頑張ろう」
と二人は、固い握手をして別れました。その林君は、私の家庭事情をよく知っていて、私をしばしば家に連れていくました。ご馳走をいただき、夜遅くまで語り合う、私にとっては、クラス一番の仲良しであり、私を熱心に指導してくらた真嶋雄一先生の奥さまは、林君のお姉さんであり、いまも心から感謝しております。



 ニチレン出版 
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 ニチレン出版のホームページから、ご購入することができます。
 http://nichirensyuppan.com/menu.htm







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