ああ!歳桃順導

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青木哲雄著「雨竜物語」から

 国道士別苫前線が通っている添牛内の一角、雨竜川河畔に二つの碑が並んで建っている。これが歳桃(さいとう)順導と教え子の大崎栄子さんの悲しき殉職師弟の碑である。
 この殉難の美談は、40年の星霜を経ているが、教育愛の物語として今日でも人々の胸をうたないでは措かないのである。
 昭和13年8月26日、さすが北辺添牛内でも真夏の太陽は暑かった。雨竜川も日照りがつづきで水は涸れ、ところどころ岩が顔を出すほどであった。支那事変で出征軍人を駅頭に送った午後、添牛内小学校の高等科1年生の児童は担任の歳桃多吉順導に引率されて雨竜川へ水泳に出かけたのである。市街の下手は水かかれても深い渕があった。このへんで遊んでいた教え子の大崎栄子さんは深みに入り流されたので、歳桃順導は身を挺して泳ぎつき岸に助け上げようとしたが、力尽きて栄子さんを抱えたまま水底に没しそのまま浮上しなかった。児童たちは驚いて急を四方に告げたので父兄達が駆けつけてきて八方手を尽くしたが、水深4㍍以上もあり、流木の下に入りこんで、しかも水が濁って見透しがつかず二人を引き挙げるのに4時間余を要し遂に息を吹き返すに至らなかった。歳桃順導はこの時29歳で前途有為の青年教師は、惜しくも花も莟みの教え子とともに散っていったのである。
 この事が新聞等で一般に知れわたると、教育界として稀にみる師弟愛を象徴する善行であるとたたえられ、葬儀は空知支庁管内一円の小学校の代表も参加した”空知教育葬”をもって執り行なわれた。
 殉職した歳桃順導は明治43年12月2日夕張郡長沼町で生まれ、大正14年5月札幌師範学校本科一部一学年に入学、昭和6年3月同校を卒業と同時に雨竜郡幌加内村添牛内尋常高等小学校の順導に任ぜられ(月給55円)新学期早々残雪の深かったこの辺地校へ赴任したのである。
 長沼の実家は農家であったので、毎年夏休みには帰省して農作業を熱心に手伝っていたので親思いの先生と評判であった。児童からも慕われ、添牛内校下の父兄からも教育熱心の先生と信望があつかった。同僚の野坂イト先生と職場結婚をして壱児をもうけたが夭折した。
 歳桃順導の善行はその後全国に広く伝わり大坂にある教育塔に合祀されることになった。その後歳月が流れて三回忌を期して、殉職彰徳碑を遭難の現場に建てることの意見一致を見たのである。

 碑の高さは八尺で、表面には
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 歳桃順導殉職碑を建てることが決定すると、師と運命をともにした大崎栄子さんの碑を並べて建てようとの議が、同窓生から盛り上がり、趣意書を校下父兄に配布したところ、予定外の拠金があったので、同時に二つの碑を並んで建立された。碑面に"故大崎栄子弔碑"とほられてある。
 除幕式は三周忌の命日の当たる、昭和16年8月26日に、涙雨の降る中、雨竜河畔の碑前で執り行われた。遺族の外村内はもちろん空知管内の校長はじめ教員組合の代表者など多数参列して悲しき追憶も新たにしめやかな式であった。役場からは大石晃弘村長用務で出席できなかったので、筆者が代理で玉串を捧げた。
 星霜38年、雨竜川のせせらぎは昔と変わらぬ調べをくりかえしつつ、永遠のなかに消えてゆく。ああ!歳桃順導。

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「雨竜川物語」
昭和53.9.1発行 発行所:(株)北書房(札幌市北区)
広報「ほろかない」に昭和48年11号から5年間「雨竜川物語」として連載してたものを補充加筆して、一巻にまとめ出版しています。

著者:青木哲雄氏のプロフィール
明治30.11.19 瀬棚郡利別村金町神丘に生まれる
明治41.3   雨竜郡一已村字幌加内(幌加内町)に移住
明治44.3   沼牛小学校卒業
大正09.3   公立空知高等国民学校終了
昭和21.6まで 幌加内村収入役 5期
昭和42.4まで 幌加内町長 5期
昭和42.5   任期満了退職後 札幌市に移住 ・・・   



2012.9.26「歳桃訓導殉職碑」↓

      添牛内小学校「教育目標」 ●じょうぶな子 ●よく考える子 ●心の豊かな子 ●よく働く子

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