「木村信吾」遺稿集《はるかなりわが幻郷》 その3

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写真:「木村慎吾遺稿集」から1978.7.23 添牛内小中学校 左側が校舎と体育館 右側は教員住宅 ポールはバクネット用 深名線側から撮影


木村慎吾先生遺稿集「はるかなりわが幻郷」

「星のような子供たちの記憶」②


寺地登は色の黒い大きな瞳をした元気で頭のよい子であった。何時も遠くの方を見つめ、夢を追っている様な面白い男の子であった。

面白い話や、軽快な動作で何時も皆を笑わせていた。僕に叱られて、全員がシュンとしている様な時、突然として大きな変な声をだして皆の気持ちを和らげたり、クラスの人気者であった。

 三月の末、学校を辞めて満州に行く事になり、朝礼のとき全校生徒に別れの挨拶をして、学校の玄関を歩き出したその時なにか大声で絶叫し乍らボロボロ涙を流して僕の後を雪の中裸足で追ってきたのが寺地であった。驚いて立ち止まると彼は僕の腰のあたりにしがみついて“先生はおれたちに満州に行くとは云わなかった、先生はウソ云った”と号泣した。

 満州に渡り、新京に住んで半年程した頃、寺地から分厚い手紙が届いた。桃歳先生と大崎栄子チャンの悲しい事故の様子と、その後のみんなの近況が寺地らしい大きな字で書いてあった。そして、最後に“先生、僕らは淋しいです”と付け加えてあった。

 手紙の中に、綺麗な布の袋に入った小さな“お守り“が同封されていた。
 “先生、えびす様が守って下さいます。このお守りはお祭りのとき五銭で買いました。大切にして下さい。元気でいて下さい”
 そのお守りは、本棚の中に飾って大切にしていたが、敗戦の混乱の中で紛失してしまった。残念でならない。

 卒業生の名簿に寺地の名前がない。行き先は全く不明である。もう再び寺地に会う事は望むべくもないが、あの日あの時、ボロボロ涙を流して走り、絶叫して別れを惜しんでくれた彼の顔を忘れる事はできない。

 菅野先生はベテランで姉の様な感じの方であった。若気の至りで、教育のイロハも弁えず自由奔放な僕の行動に苦笑し乍も、何時も心温まる助言や援助をしてくれた。先生にはよく叱られたものだった。当時は26か27才で独身だった。

 伊藤先生は、静かで真面目な口数の少ない独身の若い女性教師であった。僕が何か相談すると、何時も真剣に一緒に考えてくれた。温かい人柄であった。

 ある日の放課後、子供達と学校の裏山で大きな青大将を捕まえた。早速腰の手拭を取って包み、たまたま職員室に一人で残っていた伊藤先生に見せた。僕自身なんの悪意もなかったのが、先生は一目見るなり真っ青になって、危うく卒倒しそうになり大いに慌てたことがあった。

 この青大将の件で、菅野先生から涙を流し乍ら叱責されたし、もう忘れた頃に、どうして知ったのか、校長先生の奥さんからは、飛び上がらんばかりの大目玉を喰らった。
 風の便りに、お二人はそれぞれ結婚され。小樽と美唄に住んで居られた様子だが、子供達と同様その後一度もお会いしていない。

 あの頃の子供達は、国民学校の5年生で、45名の殆どが開拓農家の子であった。数年来の冷害で、生活は苦しく栄養失調の青ぐろい顔をした子が多く、着ているものは粗末なもので汚れていた。
 だが、瞳をキラキラと輝かせてジッと見つめていたあの熱い視線は、今も僕の脳裏に焼きついている。あの子供達は、僕にとってまぎれもなく、かけがえのない天使であった。

 あれから、もう40数年、中年を過ぎた彼等と、最早や老残のかつて僅かの期間教師であったと云う男が特に会いたいとは思わない。例え会えたとしても、すぐ別れなければならないのだ。
 僕の此の胸深く、あの頃の子供達の、あまりにも素朴で純真な生き生きとした顔が、輝く瞳が、はね返る様な声が強烈にそして鮮明に生き続けているから。

 添牛内小学校でいただいた“添牛内小学校五十年史”と云う小冊子の中に、教え子であった小川章が座談会で語った中に次の様な一節がある。

  “そうだ、誰かが一寸いたずらしても、皆で責任を負わされ、全員整列でビンタを喰わされた。
 木村慎吾先生は厳しい先生だった。だが、どこかしら親しめる人で、お別れのとき、みな泣き乍ら後をついて歩いた。留萌中学を出たばかりとかで汚い手拭を腰にぶら下げ、大きな下駄をはいて、バンカラであった。“

 昭和52年の卒業生名簿を見ると、懐かしい5名の名前がない。恐らく、卒業前に離農して何処かに移住したのであろう。現在でも市街地や近郊に住んでいるのは、ほんの数名にすぎない。
 特に女性は結婚と云う事によって、北海道を去った人は相当あって、消息不明の人が少なくない。

 併し、あの子供達の事だ、例え貧しかろうと、不遇な人生であったとしても、それぞれの土地であの明るさと困難に耐える事を忘れず、元気でいる事を信じて疑わない。

 眠った様に静かな、寂しい、そして懐かしい添牛内。再び訪れる機会は恐らくもうないかも知れない。
 40年前、吾が青春の1年間を此の地に住み、本当に素晴らしく、そして爽やかな45人の天使達に、めぐり会えた事を心から幸せに思っている。

 昭和12年3月から1年間を過ごした小学校は新築された校舎に中学校と同居していた。玄関で休み時間中らしかった子供達に職員室を尋ねれと、若い女の先生が出て来て、僕の来意を聞くと室内に消えて暫くして中学校の先生が出て来られて校長室に案内された。部屋の壁には歴代校長の写真がずらりと掲げてあり、僕のいた頃の斉藤校長は2代目で、現在の校長はもう14代目であった。懐かしさのあまり、先生に斉藤校長のその後の消息を尋ねて見たら皆目判らないと云う。他の先生方も同様であった。無理もない事だ、あれからもう40数年の月日が過ぎ去っている。

 学校を出て裏山に登って見る。あの頃子供達と何時も一緒に遊んだ小さな祠のある低い丘である。
 一息ついて四方を眺めると、あたり一面にジャガイモの白い花が溢れていた。

 40数年前の一人の男の、ホロ苦い青春の感概を、いとほしむかの様に、添牛内は初夏を告げ、甘くそして爽やかな風が吹いていた。




木村慎吾先生遺稿集「はるかなりわが幻郷」《添牛内小学校哀史》より
提供:福岡市在住 熊江様  



故歳桃順導殉職彰碑→https://02884095.at.webry.info/201603/article_4.html
         →https://02884095.at.webry.info/201209/article_6.html
      添牛内小学校「教育目標」 ●じょうぶな子 ●よく考える子 ●心の豊かな子 ●よく働く子

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