「木村信吾」遺稿集《はるかなりわが幻郷》その1

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木村信吾 遺稿集 
「はるかなりわが幻郷」から抜粋

●筆者略歴
大正6年1月26日(1917)北海道留萌市北見町にて誕生。同市にて小学校を昭和4年に卒業。中学校を昭和11年に卒業。昭和12年3月から1年間、幌加内村立添牛内小学校教諭。昭和13年に、満州(旧新京市)へ単身で渡り、郵政省に勤務。昭和19年に同市で結婚。終戦により、昭和21年に博多へ引揚。
同市(株式会社京屋)にて定年まで勤務。勤務中より若久の自宅に各地の古人形をコレクション数百点に及ぶ。昭和59年(1984)年4月より、がんセンターへ入院。同年10月6日に、婦長と奥さまに看取られて静かに他界。享年67歳。  (同遺稿集から)

●序章
この本は、ただ単に《木村慎吾》の遺稿集ではありません。文は人なりと古語にありますが、戦中戦後を純粋に、自己を愛し、人を愛し、それ故に「郷愁」の重さに耐えて生きてきた〈北海道の男〉の静かな記録集であります。
今や彼の郷愁は、時代の警鐘でもありましょう。奥さま〈木村笑子〉の切望により、皆さまのお手元へ。 
昭和60年(1985)8月1日 編集者


添牛内小学校哀史

 空に浮かんだチギレ雲もジャガイモの花も、熊笹の葉までが眠っている様な添牛内であった。村を横断する狭い埃だらけだった道は舗装され、広い国道275号線となり、時折りダンプが轟音を響かせて走りすぎる。人っ子一人通らない。時折り思い出した様に鵜が鳴いていた。

 教頭だった歳桃先生と、大崎栄子ちゃん、二人の碑が国道から少し離れた、ゆるいカーブで雨竜川の流れの近くに、ひっそりと夏草の中に添う様に建っていた。
 悲しい事件は、昭和13年8月に起きた。それは、僕が添牛内を去り、満州に渡ってから僅か半年余り後の事であった。

 冬が長く、土地も肥沃でなく、他に目ぼしい産業もない此の地の住民の離散は激しく、もうその様な事があったと云う事を知る人は少ないだろうし、又思い出す事すらないかも知れない。
 だが、やせ型で真面目たった歳桃先生と、大柄で色が白く、澄んだ瞳で何時も明朗だった栄子ちゃんの面影は、今も瞼の炊きついて離れない。

 「添牛内小学校50年小史」の中で当時の斉藤校長は、次の様に述べている。

 私のアルバムの中に、特に印象深い写真が1枚あります。故大崎栄子さんのです。“先生これあげます”って言って下さったものです。栄子さんは、それから間もなく亡くなられました。その時高等科1年でした。
 あれは、昭和13年8月26日、とても暑い日でした。支那事変で出征する軍人を駅頭に送り、午後受け持ちの歳桃先生に引率されて、高等科児童は雨竜川に水泳に出かけました。
 晴天が続いて、川は水が少なく、大抵は徒歩できる程度でした。ところが市街の下手に深い場所があったようです。遊んでいるうちに、栄子さんがその深みに流されたのです。
 歳桃先生は、身を挺して泳ぎつき、岸に助け上げようとしたが、力尽きて栄子さんを抱いたまま水底に没し去りました。児童たちは、報を四方に伝えました。部落の人たちは救助にけんめいの努力をしました。
 沈んだ場所は水深4m以上もあって、流木の下に入り込んだらしく、濁って見透しがきかず、流木を引き上げるなどして、お二人を引き上げるのに4時間近く要しました。そして、あらゆる努力を続けましたが、残念ながらその甲斐はありませんでした、前途あるお二人を失って痛恨に耐えません。

 歳桃先生は、その身は滅びたとは言え、今もその崇高な責任感と師弟愛にもえるその魂は生きています。
 雨竜川岸頭に相並ぶ師弟の碑は、後の世までも人の心を照らす事でありましょう。

 40年の歳月の流れを噛みしめていると、雑草の中に並んだ碑が、もの悲しく、寂しそうに見える。
 黒い二つの碑に何か囁きかけても熊笹の葉ずれと、鵜の鳴き声にかき消されてしまう。
 せめて一緒に記念の写真をと思い通りすがりの人にシャッターを押してもらおうと、小1時間程草むらの中で待ち続けたが、人っ子一人通らなかった。
 静かで、さわやかな添牛内の初夏の午後下りであった。
 二人の生命を無惨に奪い去った雨竜川が、すぐうしろの崖の下を、何事も忘れ去った様に、音もなく、ゆっくりと流れていた。


 次回は「星のような子供たちの記憶」①をご紹介します。




●〈木村先生の遺稿集〉ご提供頂いた熊江様からのコメント。
「添牛内WEB同窓会」にお邪魔した〈紫泥戻郎〉でございます本名は(熊江忠雄)と申し、福岡市に在住、〈木村慎吾〉の配偶者の弟の子です。
「添牛内小学校哀史」を貴サイト上にて公開いただき、添牛内小学校に所縁の方に触れることになれば、故人も喜ぶことと思います。

      添牛内小学校「教育目標」 ●じょうぶな子 ●よく考える子 ●心の豊かな子 ●よく働く子

この記事へのコメント

カムシュペ
2020年04月19日 04:44
私の生まれる前の記事ですが記述の景色は目に浮かぶようです。ダムの完成前の雨龍川はもっと水量が多かったと想像されます。