わたしたちの郷土「添牛内」その2

わたしたちの郷土「添牛内」 その2は「働く人びと」編です。

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  働く人びと

 水田をつくる人びと

 僕は6月に、お母さんと幌加内のおじさんの家へ田植えの手伝いに行きました。おじさんの家に入ると、おばさんが一人で何かご馳走を作っていました。僕はし支度をして田んぼにでました。田んぼでは、大勢の人がいっしょうけんめい田植をしていました。
 田植は短い間に植えなければなりませんので市街から大勢の人をたのみ、全部おわるには5日から一週間もかかるそうです。ぼくは苗運びを手つだいました。
 昼休みは12時から1時までで、3時すぎに「こびる」という30分くらいの休みがあり、1日の仕事が終わるのは6時すぎです。夕ご飯が終わると7時すぎです。その後で僕はおじさんから米作りについていろいろお話を聞きました。
 幌加内で農業をするために入ってきた人びとの生活は大変苦しいものでした。「おがみ小屋」をたて、ムシロをはって雨つゆをふせぎ、1アール、2アールと少しずつ土地を拓いて行きました。小屋には、大きなイロリを作り、長さ1メートルくらいの丸太を、「ガンタ」で転がしてイロリに入れ、火を消さないようにして生活をしました。
 農業1年目は、ばれいしょのほかの作物は何もとれませんでした。3,4年してやっと生活ができるだけ作物がとれるようになったそうです。
 幌加内で始めて米を作ったのは1900年(明治33年)で一已村(今の深川市)より稲の苗を持ってきて30アール植えましたが、茎だけが伸びて米はとれませんでした。その後和寒から1904年(明治37年)に稲の苗を持ってきて10アール作ったところその年は天気がよく260キログラム(4表半)の米がとれました。こらが幌加内の米のとれた最初です。

 田うえがすむとすぐ後は草取りです。一番草、二番草、三番草と3回くらいとります。これは稲の成長をさまたげる草を取るためです。今は草取りをらくにするために除草剤を使う農家がふえています。
 虫よけや、イモチ病よけの薬もまいたりします。このようにして、秋の取り入れまで休みなく仕事がつづきます。そして、稲刈りがすんで、米の入った俵が納屋に山のように積まれると今までの苦労が消えてしまうような気がするそうです。
 でも、米は毎年たくさんとれるのではありません。冷害や水害などで米がとれない年もあります。こんな時農家の人びとは、自分の食べる米がなく、一番困るそうです。
 米は寒さに弱い作物なので農業試験場をはじめ、農家の人びとが冷害に負けない丈夫な稲を作ることや、土地を肥やしたり、温床や、水、肥料について研究しているそうです。
 次の日、帰るときおじさんは「秋の稲刈りにまた手伝いに来てね。」といいました。
 僕は家に帰っておじさんから聞いた話をすると「添牛内でも毎年あちらこちらに水田をつくり、たくさんの米をつくっているよ。」と教えてくれました。

畑をつくる人びと
 この添牛内の町で一番とれる作物は何と言っても、馬鈴薯です。特に北星や大曲に畑が広々と続いています。この辺の農家は平均して、7~8ヘクタールの畑を作っています。

 馬鈴薯は主に「農林1号」という種類ですが、はかに神谷(かみや)イモなどもあります。
 5月の始めか末にかけて、種イモを畑に植えます。ここでは台風などの被害が少ない代わりに雪が早いので、刈り入れ時には学校の生徒も手伝はならないほど忙しい日が続きます。今では5~6軒が集まって一緒に仕事をする共同経営や機械の共同利用で仕事が楽になって来ています。
 10月末ころまで続く取入れが終わると、とれた馬鈴薯を澱粉工場まで運んで来ます。そこで重さを量り、水洗いをして、大きな機械に入れ、こなごなにします。
 その時に「かす」と「でんぷん」とに分け、できた澱粉を乾かし、袋に詰めます。
 お米はあまり作っていませんが、それは土地も悪く、天気の日があまり続かないからです。
 歩かに小豆、野菜なども作っています。



・わたしたちの郷土「添牛内」その1 → http://02884095.at.webry.info/201711/article_7.html

      添牛内小学校「教育目標」 ●じょうぶな子 ●よく考える子 ●心の豊かな子 ●よく働く子

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