古老座談会(昭和43年5月)

「幌加内町史」(昭和46年9月1日発行)から「古老座談会」添牛内地区を抜粋しご紹介致します。
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        写真左から 山崎久太郎氏 仙丸隆吉氏

         【添牛内地区 古老座談会】

  日 時 : 昭和43年5月16日 13:30~16:30
  場 所 : 添牛内地区公民館
  出席者 : 増田種祐・永井さわえ(添牛内)
        滝谷栄吉・仙丸隆吉(北星)
        山崎久太郎・三島与太郎(大曲) 
        鎌田教幸(編さん委員)
    
    
司会 では皆さん、まず自己紹介を兼ねて私の隣の滝谷栄吉さんから順にお名前、入地された年および、その時の年令をお聞かせください。

滝谷栄吉 私は大正2年2月に、27歳で入地しました。
山崎久太郎 私も滝谷さんと一緒でした。大正2年に27歳で入りました。
三島与平治 私は明治45年6月5日の24歳で入地しました。
仙丸隆吉 私は大正2年に20歳で来ました。
増田種祐 私は明治45年7月30日に28歳で入地しました。
永井さわえ 私は大正元年に大通り5丁目12番地に入地の準備をして翌2年4月4日に主人と剣渕から来ました。

司会 鎌田教幸さんは町史編さん委員としてご協力をいただいておりますが、宜しくご助言をお願いします。皆さんどうもありがとうございました。ではまず入地当時の自然環境や道路などについてお聞かせください。 

三島与平治 今日来られた皆さんは、みな温根別を経て来られたもので、当時は刈り分け道路で、ここまではあったが、朱鞠内へは道路がなく、川越えして行ったものであった。
ここから政和まで刈り分け道がついたのが大正5年で、それまでは温根別へ行く道路しかなかった。あのころはどこもここも密林で熊笹の原であった。大正元年の春に近文のアイヌが私の地内で大きな熊を5頭も射止めた。
鎌田教幸 そのころ道路といっても、笹を刈って平らにならした程度の道だった。温根別の七曲りといって酷い道だった。明治44年にこのようにして造られ、それから徐々に排水を掘ったり、土を盛ったりして道路の形が出来ていった。
永井さわえ 秋になるとぬかって仕方がないので、割り板を並べながら草を刈り分けてようやく通っていたが、ひどい道でしたよ。

司会 それでは話題を変え入地当時の衣、食、住について、いろいろお聞かせください。

三島与平治 私らは養正団という団体できたので、いくらかの貯えで士別から買って来ては食べていました。
仙丸隆吉 そのころはだいたい2間か3間くらいの、ちょっとしたおがみ小屋が住み家で石油を4合瓶で買って来てカンテラで明かりをとったもので、中には石油も使わず焚火の光で始末をして、すぐ寝てしまった人も少なくなかった。
鎌田教幸 まず始めたのは2反でも3反でも開墾して自分の食料を確保するために、麦、いなきび、イモだのを作ることに専念し、これに2~3年はかかった。
三島与平治 そのころ食べた物は、主食に麦、お采は味噌と塩だった。味噌は大豆がなかったから買って食べた。
山崎久太郎 添牛内に店が出来るまで、士別で買って来ていた。
三島与平治・永井さわえ 添牛内は割合早く店が出来た。松村さん、溝口さん、横山さんなどが早かった。たしか溝口さんは大正2年だと思いますよ。
山崎久太郎 あのころは添牛内の店も、士別から持ってくる運賃が加算されて割高だったが、近いのは便利だし、夏の間はいろいろのものを店から借りて、秋畑から採れたもので支払いをしたものだった。
三島与平治 あの当時、入地の時は3年間の食糧を持って入れと言う事だったが、そんな人はいなかったな~。
仙丸隆吉 大正2年は凶作だったが、入地当時持ってきたもので、どうにか食いつないだが、大正3年には参ったな。

司会 大正2年の凶作の年はどうでしたか。

三島与平治 9月19日の大霜で何もかもやられてしまいました。いなきびやトウモロコシがボキボキ折れるほどだった。
山崎久太郎 あの年は春が遅く作付けが遅れたのが、不幸に拍車をかける結果となった。なにしろ丁度、あの大霜の時にいなきびの穂がやっと出たところだったし、トウキビの実がついたばかりだったからな。それでも麦は割合に獲れた。
三島与平治 あれで種物はほとんど失ってしまい、11月雪の中を幌加内まで種物を買いに行ったことを覚えている。

司会 そのころの服装はどんなでしたか。

永井さわえ 当時の服装は酷いものでしたよ。たいていはウンサイのモンペをはき、上はウンサイか木綿の綿入れハンテンを着て、ボタンがないのでひもで結んでいました。下着はアイボ―といって軍隊ネルとかいう棒稿や格子稿のネルを自分の家で作って着ました。足にはこれもみな自分の家でコマメに刺して作った刺子タビを履き、夏はわらじを履きました。冬のツマゴや草履は藁がないので俵をほぐして作り、これにスゲを干して混ぜたり、スゲだけのわらじを作ったりしましたね。
三島与平治 犬の皮や、毛皮(当時ケットといった)などは随分後になってからだった。犬の皮を背中に着るようになったのは昭和になってからでなったかな。
鎌田教幸 あのころは贅沢品など何ひとつなかった。米、味噌のほかは鋸と鍬、鎌、まさかり、なた、鍋、釜、あと何もなかった。

司会 では話題を変えまして、ご当地の学校設立について、いろいろと苦労されたようですが、その模様をまず増田さんからお話しください。

増田種祐 学校をつくるには苦労したな。御料に行く道路を部落総出でつくり、学校を作るまでの苦労は並大抵ではなかった。先生の給料も1戸から50銭ずつ集めて充てたりした。
三島与平治 ここは大正2年6月に特別教育所が建った。このころ入地者が70戸ほどあったが、1戸当たり3円ずつ出し合って210円ほどで、伐木から建築までやり、出来た物を道庁に寄付して、やっと大正3年に認められて教育所となった。大正3~5年と入地者が増加して、教育所も1教室では間に合わなくなり、また金を出し合って教室増築し、そして大正6年に添牛内尋常小学校になった。あの時はそのようにして全部部落の寄付で出来たので、大正5年に当時の北海道庁俵孫一長官から感謝状をもらっている。
この学校が大正11年3月22日に焼失したので、それ以前の記録はほとんどないと思う。
永井さわえ 学校のところは一面のよし原で酷い所だったですね。
三島与平治 今でも思い出すが3月22日、あすは卒業式だというので、子供たちが学校は行ったら学校が燃えて無くなっていた。藤井校長の時代で、その年は学校がないので今の坂のこっちにあった、すいている時は映画などやった建物を借りて仮り校舎とし授業をした。
永井さわえ あれは大野さんという人が澱粉を入れる倉庫に建てた物でしたよ。それ、政和からの澱粉をここまで船で運んできて、中継ぎにあの倉庫に入れ、逆に士別から運んできたいろいろの物資を入れて置くため作った倉庫だったでしょう。

司会 冒頭に皆さんの自己紹介でお伺いしたところでは、いづれも相当のご年配のようですが、その当時の楽しみはどんなことでしたか。

三島与平治 別になかったね。道具があるわけでなし、お祭りだって何もなかった。しいて楽しみといえば、土地を早く開いて1日も早く付与を受けること。
山崎久太郎 まァー楽しみといえば運動会が最大のものだった。
仙丸隆吉 私らは大正4年ごろだったか、青年芝居をやった。2回ぐらいもやったか。また大正7~8年ごろからお祭りには芝居や浪曲をあげて楽しむようになった。

司会 そそでは入地当時、病気やお産の苦労話はありませんか。

仙丸隆吉 ここには北星の行信寺の先代さんが、われわれと一緒に入地されたので大助かりだった。あの人は赤痢では神様のようだった。布教のかたわら小まめに病人をみて回ってくれたし、まさしく開拓の功労者ですよ。
永井さわえ あの人のいない時に病気をして急を要するときは士別まで出たものでした。
仙丸隆吉 悪い意味ではなく、あの先代さんは医者と坊主をの両刀使いだったから、治らなければ、その後の面倒もみてもらえて重宝だった。
都築さんが開拓医としてこられたのは大正14~15年ごろだろうか。
増田種祐 そうだ、大正13~14年ごろだったろう。
永井さわえ あのころ産婆さんはとくになく、お産の経験があって産扱いの上手な人にとりあげてもらったものでした。
鎌田教幸 あのころはろくなものも食べていなかったが病気はあまりしなかった。

司会 売薬商人はいつごろから入ってきましたか。

三島与平治 私らが入地して2年くらいから入って来た。はじめに来たのは㋙印の薬屋だった。
仙丸隆吉 あの連中は、ネズミの穴でももぐって入り込んでくるくらいの商魂を持っているから、温根別の方から入って来て、多い家では10袋以上もあったが、結構重宝がられていた。
鎌田教幸 軍服みたいなものを着て手風琴をならして薬を売って歩くオイチニのなんとかいう薬屋はここへはこなかった。

司会 話が前後して申し訳ありませんが、こちらでもハッカは作られていましたか。

仙丸隆吉 ハッカの話が出たので、昔ばなしをさせていただくが、私は長沼の出身で、このころ父親が札幌にでると、同輩が玉ねぎで儲け、上士別に行くとハッカで儲けて二重マントを着て歩いていたのでしゃくにさわるといって、ここで二重マントを着て腹いせをしていた事を覚えている。ハッカが作られたのは大正5~6年以後だった。ここにおられる三島さんや山崎さんはハッカでだいぶ儲けた人達でしょう。
三島与平治・山崎久太郎 それほどでもなっかたが、あのころほかのいろいろのものを作って出荷もできず、ハッカなら持って行くにも楽だったから1丁歩以上もつくり30年くらい続けたかな。

司会 欧州大戦の好況を反映して、青えんどうのよい時代がありましたが、どうでしたか。

鎌田教幸 あれは大正6年の欧州大戦後だった。皆が青えんどうというんで思い切り大作をした。ところがあの年、9月6日の大水害ですっかり流してしまい大損をした。
永井さわえ あの時、高田さんの裏の小林さんの家が水害の中に孤立して、船で2階から助けにいったほどだった。
三島与平治 あの水害でせっかくの青えんどうの山が一晩で流されるやら、水浸しになるやらで、全然だめになってしまった。

司会 つづいて澱粉に話題を変えていただきましょう。

鎌田教幸
 ここでは澱粉工場が24~25あったかな。
山崎久太郎 当時の澱粉工場は馬回しか水車がほとんどだった。
仙丸隆吉 上士別で坂と言う人が、発電機を使って澱粉工場をやっているというのでびっくりしたものだった。今から考えれば可笑しいようだが、あのころ焼玉発動機だったが、とにかく驚異の的だった。

司会 澱粉の包装はどんなものでしたか。

山崎久太郎 ごく始めは木の箱に詰めたこともあったが、ほんのしばらくの間で、その後は上質の木綿袋に12貫詰めとした。
永井さわえ あの箱入り(12缶詰)澱粉カスが3円50銭だった。せめて4円してくれたらな・・・と私の親が話しているのをよくきいたものです。
山崎久太郎 箱入り澱粉は箱の横に3つ星印のペーパーを張って出荷した。澱粉は駄馬で士別に運び、向こうの商人と取引をしたものだ。
永井さわえ 士別では値段が出てから、仕切るという方法で、向こうへ預けてきたんでしょう。そうでないの。
仙丸隆吉 イヤイヤ、その時はもう12月で、金が急ぐものだからお互いそんな余裕などなく、出荷しただけ、その時の相場で仕切って取引したものだ。商人の倉庫に積んでおくと倉置き料は取られるし、よほどの有力者ででもなければ出来ないから、いい加減商人に買いたたかれてしまった。そうだ1俵が3円50銭から3円70銭くらいだったかな。倉に預けて5円になったら売ってくれと話したことを今でも記憶している。
永井さわえ あのころ米1俵が6円だったから、今から考えると澱粉の方が良かったことになりますね。
仙丸隆吉 添牛内で出来た澱粉は全部士別に出し、そして食料品をはじめ生活必要品は全て士別から買ってきた。だから商人は肥料で儲け、それに利子をつけ、秋にはまた澱粉で儲けたものだ。しかし、そうは言っても持ちつ持たれつで、こちらもそれで結構重宝していたものだ。
山崎久太郎 だからあのころ士別の商人にとって幌加内様々だった。

司会 では当時の物価を知る意味で生活用品、出面賃などの一端を伺わせてください。まずは煙草から伺いましょうか。

鎌田教幸 アヤメ5本入りが5銭、サツキは高級品で私らには値段がわからない。
永井さわえ サツキ40本入りが70銭でしたよ。家の父さんが吸っていたのでよく知っています。
鎌田教幸 酒1升がここまで駄馬で運んできて70銭だった。
永井さわえ お米1票が6~7円で運賃が3円50銭、ニシン1箱が2円50銭で運賃が2円でしたよ。不便なところは仕方のないもので、ここに来る前に居た所に比べて割高なものばかり買わされました。
三島与平治 出面賃は男で25銭~30銭、女で20銭くらいだったな。
山崎久太郎 大の男で朝から晩まで働いて35銭とればたいしたものだった。
永井さわえ 話は違うけれど、あのころ4尺2寸くらいの馬を4頭も5頭もしっぽを数珠つなぎにして、駄馬輸送をしている姿を見掛けたものでしたね。

司会 大正7年、幌加内が戸長役場に分村独立するまで、川をへだてて別々の母村に所属したいたわけですが、そのころの往来とか交際の状態はどうでしたか。

鎌田教幸 行き来はしていましたが、なにしろ村が違うからあまり交際はしていなかった。
仙丸隆吉 学校関係では、村が違っていても研修会は一緒にやっていた。

司会 ここは雨竜川のすぐそばですが、川や渡船のことで、いろいろと苦労や思い出話もあったことと思いますが、如何でしょう。

永井さわえ 雪融け頃の流氷は物凄かったですね。川一面に5尺も6尺も盛り上がって流れ、人が乗っても沈まないくらいでした。
三島与平治 あの流氷が川につまると春水の大洪水に悩まされた。
鎌田教幸 あの流氷も鉄道が開通して鉄橋のピーアに当たってくだけたり、三ッ俣(朱鞠内)にダムが出来てから無くなって助かっている。
永井さわえ 流氷が流れていってしまうまで川に舟が出せなかった。

司会 渡船(添牛内21線渡船場)について、お話ください。

仙丸隆吉 渡船場には専門の渡船人がいて、初めは下村さん、それから今井さんになった。冬は氷橋を架けて渡った。今井さんが渡船をやる様になり、大正5年頃ワイヤーを対岸まで架けて、ゴンドラのような箱をつるし縄をたぐって渡してもらった。
永井さわえ あの箱で渡るとき料金は5銭くらいでしたよ。男の人は力があるから自分で向こう岸まで行きつけるが、女の人は川の上に宙づりになり下を見ると川の水は多いし、恐ろしくて大声で叫んで岸まで引き寄せてもらったものでした。雪解には宙づりの箱の底に流氷が不気味な音をしてぶつかり、今にもひっくり返りそうでヒヤヒヤしたものでした。
仙丸隆吉 冬の氷橋も個人でかけたものを別として21線のものは有料だった。

司会 次に今まで3ヶ所の座談会で開拓の裏面史と言えるタコ部屋についていろいろ伺ってきましたが、こちらでも何かこのことについて特に印象に残るような話がありましたらお聞かせください。

鎌田教幸 あれは昭和3年か4年ころに朝鮮騒動という非常に変わったケースがありましたよ。
永井さわえ あれは添牛内・政和間の鉄道工事の時だから、昭和4年だったと思いますね。理由は賃金問題に腹を立てた土工夫が藤田さんに泊まっていた帳場に交渉に来た。ところが帳場は屋根づたいに逃げてしまったので連中が怒って新市街を焼きはらうという噂が立ち、さあ大変と電話か電報で深川へ知らせたので、深川から警察が50余人自転車で来て、18線にあったタコ部屋を包囲して全部捕まえた。市街では学校の庭に警官の食事を炊き出しするやら大騒ぎだった。
鎌田教幸 結局うわさに尾ひれがついて、あんな大騒ぎになったのだろうが、火の見櫓の鐘をたたくやら、「山」と「川」の合言葉で自警団を組織するやら一時は大騒ぎだった。
永井さわえ 朝鮮人の土工夫が、もし攻めてきたら鐘をたたくと言う事になっていたのを、どう間違えたか鐘を乱打したのでよけい土工夫を怒らせてしまったらしいんですよ。

司会 だんだん時間も経過いたしましたが、皆さん今までに特に印象に残っている話がございましたらお聞かせください。

三島与平治 大正2年の凶作の翌3年の春に救済事業があり、男女とも出役した。この仕事は御料の伐木事業であったが子供から女まで出て賃金の代わりに米や味噌をもらった。大正3年の種物は温根別や幌加内から分けてもらってした。大曲に行った人たちは物を買うにも金がないので、温根別の伊藤という人から3分の利子で金を借り、この借金を返済するのにどれほど苦労したか分からない。あの時大曲の人達は麦の糠まで食べて頑張りとうしたそうです。
鎌田教幸 大正2年にまつわる話だが、私は11月に幌加内に行った時、幌加内市街の齊藤という澱粉工場で、何年も前からの澱粉カスを積んであったのを雨煙別あたりの人がみんな馬そりで運んで、雪の上にしばらくさらし団子にして食べたということを聞き、ひどいものだと思ったな。
永井さわえ ここでもあの時は澱粉カスを食べたし、横山さんと牧野さんの間にあった細川さんという家から2番粉という真っ黒い粉を買って食べたが、ヨモギを入れて団子にすると結構食べられましたよ。
鎌田教幸 あんたもよく覚えているな。私も食べたよ。
仙丸隆吉 私は自分も面識があるので、吉利智好さんのことについてちょっとふれたいと思う。あの人は養正護国議団の団長として団員213名の理想郷を作ろうとして努力したが、実際に入地(政和)したのは23名で途中で挫折したが、薩摩人で一風変わった人であった。床次竹次郎氏に知遇があり雨竜線(現在の深名線)の建設には非常に努力された。この線が出来た時吉利線などといったものだった。兎に角ちょっと話を聞いても先の先を見通して話しているので、何がなんだか現実ばなれして、つかみにくかったが傑物だったことは事実だ。
山崎久太郎 私はあのころの温根別や士別へ出かけた苦労が忘れられない。政和や朱鞠内のものは一度ここまで来て、それから士別の方へ行くのだから、どうしても泊まらなければならないし、運搬渡世人は無理をしないで泊っても物品にかぶせられるからよいが、私らは宿賃は惜しいし出すのが苦しいので、夜の12時ごろに支度をして、家を出て無理を承知でシャニムニ帰って来たものだから、家に帰り着くと、たいてい夜の10時か11時で疲れ果てて口をきくのも嫌なぐらいだった。
永井さわえ 明治45年6月1日に私の主人がこちらに視察にきて、分担区の折笠さんに頼んで大通5丁目12番地の土地を約束して帰り、その年に家を作り、翌年4月3日に夜12時ごろ馬15頭を頼み用意をして、4日朝7時半に剣淵を出発したが、ここへ着いたら真っ暗で雪の多いのに、まずビックリしました。氷橋を渡りこれから市街だと言われたが、家は1軒も見えず、各戸の入り口には12~3段の階段があり、その奥の下の方でうっすらとランプの光が見え、2度びっくりするやら寂しいやら泣き出したいような気持でした。きた年は家の周囲は一面の笹薮で野菜もなく、蕗や根曲竹の子を食べて過ごし、飲料水は川水を使いました。こちらへ来た当時は夕方川へ洗濯に行くと手といわず足といわず、そこらじゅうかゆいのに参りましたが、渡船場の下村さんのお婆さんの話で、ブヨだと分かり、それからは日中に出掛けるようにしました。家にはお風呂もなかったので、もらい湯に行きましたが、川の土手にあって屋根も栫もなく、虫が酷くて上がって体を洗う事も出来ないので、子供たちは行水で我慢させた。あの頃は道も悪く、いろいろな生活物資は勿論、新聞や手紙も駄馬で運んできたくれた。こちらに来たころの道は本当に酷いもので、割り板を敷き詰めた上を金輪の馬車でガタンゴトンと行くのですから参りました。しかも道が狭くて、途中に何ケ所か、ちょっとした待合所があり、そこで向こうからくる馬車を待ってすりかわすのですが、朝早く家を出ても帰るのは、たいてい晩になったのでした。
滝谷栄吉 私は耳が遠いので座談会に出席させていただいても皆さんと一緒に昔話もできませんでしたが、感謝の一端を申します。ご承知のように私はあんな離れ島のようなところへ入ったので、最初は道路もなく仕方なしに丸木舟を作って川を渡ったが、舟が上手く操れず当惑したものです。大学の刈分け道路の出来たのが、大正10年ごろだったが、舟がひっくりかえりかけ何回命拾いをしたか分からない。こんな具合だったから、めったに外にはでなかったが、荒山のこととて道具が傷むと、どうしても修理に出なければならず苦労した。
そこで昭和6年ごろに8番線の針金を10本くらい合わせて束にし、これで吊り橋を作って渡るようになり、ほっとした。そのころの雨竜川はダムの出来る前なので水かさも多く、流れも早かったので、子供を大正4年から新富の学校へ通わせたが、例の丸木舟で川を渡るので、流送の木材が次から次と流れて来る。帰ってくるまで心配でたまらなかった。こんな状態だったから子供の学校は氷が水面に硬く張りつめて、徒歩で渡れるようになるまでと、春の雪融けの増水期と春秋2回は休ませたものだった。
このような当時の命がけの苦労を考えると、今あのような立派な橋(緑郷橋)を架けていただいて、本当に都に出たような気がして、喜んだり感謝したりしています。
      添牛内小学校「教育目標」 ●じょうぶな子 ●よく考える子 ●心の豊かな子 ●よく働く子

この記事へのコメント

doraneko-28
2016年12月23日 21:11
 添牛内の黎明期の話、私も初めて聞いた話が大半でした。
座談会出席者のお名前もみんな知っていますが、大体私の父と同年配なんですね。
 
 農産物の出荷も、士別までの往復。女性が冠婚葬祭で実家に里帰りするにも、子供を負ぶって着替えやおむつを持って士別まで出なければ汽車に乗れなかったと聞いていましたが
 先人があんなに苦労をして開き、栄えた集落が今のように様変わりするとは! 何とも言えない気持ちです。
私も、父の没年齢を4年ほど超えましたが!

貴重な記録をありがとうございました。

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