「母校のあゆみ」 その5(最終)

連載してきました「母校のあゆみ」は、その5が最終です。
平成12年3月12日(西暦2000年) 第82回卒業生をもって、添牛内小学校88年の歴史に別れを遂げました。
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 中学校の統合問題がこの校下にも切迫し、昭和56年の春にアンケート調査が行われた。4月19日の授業参観のあと、PTAの総会が開かれアンケートの集計結果が報告されたが、統合問題は前進も後退もならない息詰まる状態で先送りとなった。以後しばらくは、誰からもこのことに触れる発言がなくタブー視された。 

 昭和56年、築後30年を経った体育館が立て直された。校舎の東端から裏側に鉤の手の位置取りで建てられた。鉄骨鉄筋コンクリート造578㎡(175坪)で、工事費に1億200万円が投じられ、11月13日に2代目の体育館として落成記念式を挙げた。

 中学校の生徒数減少や後続の見透し児童数減少の実態に迫られ、校下住民の意識変化もあって、統合是認の空気が濃縮され、PTAの場に再び持ち上がり、統合に向けた意見集約をみるに至った。昭和58年12月の町議会で閉校に伴う学校設置条例の改正が決議され、59年4月1日で幌加内中学校への統合が決まった。

 昭和29年4月添牛内小学校は単置校となった。児童数はこの春の卒業生がいないので、前年からの在校生5人に新1年生3人を迎えて、3学級8人であった。この年、旧校舎を解体している。

 平成元年に、校庭の二宮尊徳像が盗難に遭う事件があった。幸いに回収することができ、修復して元の台座に納めることができた。

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 中学校閉校から10年を経て、その際に発刊した記念誌の同窓生住所録が古くなったことを案じ、同窓会(杉浦茂会長)では同窓の士を結ぶ絆として再刊を企画した。学校側との協議の結果、開校80周年の節目にもなることから、記念事業として取り組むことになった。39回生の今井正昭が委員長となり12人の委員が編集作業にあたった。全国の同窓生あての趣意書発送にはじまり、原稿がまとまったのは平成6年2月になった。添牛内小学校80周年・同窓会再発足15周年記念誌『雨竜川』は、B4判100頁に及び、同窓会の名において4月30日に発行された。

 平成6年の学校規模は3学級6人であった。平成10年の夏、同窓会再発足20周年を記念し、地元同窓会有志で台座作成作業を得て添牛内小中学校同窓記念碑『我らが母校』を建立した。この記念碑の建立をもって本校同窓会活動に終止符を打った。本校の児童が少人数ながらも春から丹精を込めて造り上げた花壇が第26回北海道花いっぱいコンクールで奨励賞を受賞したのもこの年であった。同年の児童数は2学級3人である。

 平成11年度の卒業生1人を送り出すと在校生が1人になり、当分の間入学が見込めないことから地域住民集会を開催し、閉校に伴う諸課題について協議、閉校を惜しむ意見もだされたが閉校し朱鞠内小学校に統合することを決定した。その後、添牛内小学校閉校協賛会を発足、平成12年3月18日記念式典・惜別の会・記念誌発刊をした。

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 当日校庭には雪解けには早い積雪の中、地元、町内はもとより町内外の同窓生や関係者が集い閉校を惜しむ声や旧友の再会に心を弾ませる人達に囲まれ、最後の卒業生1人に第82回卒業証書授与式が執り行われ、第1717号の証書が授与された。引き続き閉校式典、惜別の会が挙行され、最後の参列者約200人ぜんいんで「ふるさと」を斉唱し、添牛内小学校88年の輝かしい歴史に別れ遂げた。

             「母校のあゆみ」 完


参考資料:幌加内村史・幌加内町史・新幌加内町史から抜粋。


      添牛内小学校「教育目標」 ●じょうぶな子 ●よく考える子 ●心の豊かな子 ●よく働く子

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