「母校のあゆみ」その1

平成28年1月7日、「添牛内複式学校生徒」さまから,教材「わたしたちの郷土添牛内」についてのコメント書き込みに接し、我が「母校のあゆみ」を、今一度詳しく調べてみる事にしました。

画像

              昭和5年 全面改築をした校舎


『わたしたちの郷土添牛内』
 色々と情報ありがとうございます。知らないことがわかり参考になります。ここで物置の奥から古い本が出てきましたので、一部紹介いたします。
 「わたしたちの郷土添牛内」幌加内町立添牛内小学校とあり、教科書のようなものです。内容から昭和38年頃かと思います。
 一部紹介しますと、「学校のおいたち」→添牛内に初めて学校ができたのは1912(明治45年)年です。添牛内の開拓に入ってきた人々は、子供の勉強のことを心配して作ったのです。
 でも、この学校には北星の人はくることはできませんでした。雨竜川に橋がなかったからです。そこで北星にも学校が1913年にできたのです。1年生から6年生までひとつの教室で勉強したのです。
 1922年の3月に卒業式の前の日に焼けてしまいお寺で卒業式をしたこともあります。やがて雨竜川に橋ができ1929年二つの学校が一緒になって幌加内村尋常小学校という名前にかわりました。
 ~略~ その他開拓時の様子、消防、郵便局、でんぷん工場、鉄道などについて記載されております。当時の挿絵、添牛内市街地の絵地図もあります。懐かしいものが出てきました。  (添牛内複式学校生徒)



           【母村所属時代関係図と行政区画の推移】
画像

画像

 我がふる里、幌加内町が大正7年(1918)4月3日、幌加内村として独立し、戸長役場が設置されるまで本町の地域が母村に所属した明治23年(1890)6月新十津川村所属時代から大正7年(1918)3月31日(上北竜村所属時代)までの28年間は、本町のもつ地理的条件(位置が空知支庁の北辺にある)や立地条件(山間地である)などの理由もさることながら、誠に複雑多岐にたどった原因は、町の中央部を貫流する雨竜川にあったといえよう。
 本町が分村独立するまでに所属した母村は、新十津川をはじめとして深川村、雨竜村、北竜村、一己村、上北竜村、多度志村と前後7ヵ村に及んでいる。しかも、その所属行政区は常に雨竜川を基準としているが、母村所属時代の行政区画の推移を示せば下記の通りである。 

【雨竜川の両岸】
新十津川時代(4年間) 明治23年6月~明治27年5月

【雨龍川の東側】 (大学演習林地)(北星側)
深川村時代  ( 7年間) 明治27年5月~明治34年4月
一己村時代  (17年間) 明治34年4月~大正 4年4月
多度志村時代 ( 3年間) 大正 4年4月~大正 7年3月 

【雨竜川の西側】 (御料地)(新富・添牛内・大曲側)
雨龍村時代  ( 2年間) 明治30年7月~明治32年7月
北竜村時代  (15年間) 明治32年7月~大正 3年4月
上北竜村時代( 4年間) 大正 3年4月~大正 7年4月 

【雨龍川の両岸】
上北竜村時代( 3日間) 大正7年4月1日~4月3日
大正7年4月3日 幌加村として独立


 旧添牛内小学校

 学校の前を通る国道239号は、開拓期の植民地区画で添牛内21線とされた号線道路である。この線は南流する雨竜川をまたぎ、東は大学演習8号植民地、西は御料農場植民地として開発された土地柄である。この土地への入地ルートは温根別中線からの刈り分け道路であり、大学8号を通過して御料地に入植した者は、21線の渡船によって雨竜川を越えた。当時はこの雨竜川が村界であり、大学8号は一已村、御料地は北竜村に属していた。隣り合わせで指呼の間にあった両地区で、開拓初期の頃には、それぞれに学校が設置されていた時期があった。幌加内村独立後11年目にようやく合併して1校になった。本校歴史の双頭部分約17年間、それぞれに校歴を辿っていく。

まず添牛内側から。

 入植早々の先人たちが子弟教育の必要性を痛感し、明治45年に御料地の貸し付けを願い出、校舎敷地6反歩(現在地)と農業実習地4町7反歩の貸し付けを受けた。同年7月1日杉田作次郎によって私設教育所を開校した。70戸ほどになっていた入地者の拠金に、御料局からの特別補助金100円を合わせ、450余円の工費と労働奉仕によって25坪の校舎を建て、大正2年6月5日に落成した。これを村に寄付することによって、翌3年4月1日公立の教育所として認可された。当時の児童は男子21人、女子18人であった。初代教員の杉田は明笛(横笛)の使いてで、「天然の美」を得意として子供達に聴かせたりした。

 公立になるまでは、教員給料などにあてるため部落民は各戸月額20~30銭を拠金としていたが、大正2年は大凶作に遭ってこれもままならず、給料不払いで杉田は内地へ逃げるように帰った。あと来た島影精も同様の轍を踏んだ。

 入植者が次第に増え、大正5年に校舎25坪を増築した。工事費に550円余を要したが、部落民の寄付でまかなった。設備費として上北竜村から100円の助成を受け、4月25日に完成し2教室となった。特別教育規程の改正によって、翌6年4月1日添牛内尋常小学校と改称され、藤井校長が着任した。

 大正7年4月に幌加内村が独立し、上北竜村から学校を引き継がれた。時に校舎面積58坪、児童数88人であった。同11年3月22日の夜半に学校が全焼した。翌日の卒業式にそなえ、子供達も手伝って準備が終えていた。藤井校長は落ち込んで顔色をなくしたが、伊藤省一郎ら12人の卒業式は近くの大谷派説教場(浄念寺の前身)で行われた。新旧両市街の間の坂下の船つき場があって、大野某が持っていた澱粉貯蔵倉庫を借り、仮校舎での授業が続いた。学校再建は道庁と御料局から補助を受け、村の基本財産支消金などを充て、校長宅付きの2教室が翌12年3月31日に2代目の校舎として落成した。


 さてここで一旦、雨竜川左岸の大学8号側の学校にふれる。

 対岸の添牛内の方から一緒に学校を建てないかと相談があったが、村が違い渡船による交通などの状況から断ったと伝えられる。大正2年の春、初期入植者の一人である鎌田喜太郎が建築委員長となって、建築資材の切込みがはじまった。大学の区画した学校敷地に、4間×7間の1教室が校舎として完成した。5月15日の開校式には雪がまだ60㎝も残っていた。私設教育所の初代教員は、徳島県の師範を出た駒坂高雄で30歳を超えていた。児童数は32人であった。
 学校に維持費は部落の階層から集めていた。入植者の地力に応じて甲乙丙に分けていたが、高台地帯は丙であった。児童1人の家は月20銭、2人は30銭、いない家は10銭という具合で負担した。前年が大凶作でカボチャもトウキビも食べられない実態から、部落の代表者が駒坂に「奉給をまけてほしい」と申し入れたが断られ、次の日には、内地に逃げ帰った。部落代表が一已村役場へ救済の懇願に行ったところ、村長は始めびっくりして「そんな所に40戸も何時入植した。果たして一已村の中なのか?」と云った調子であったが、とりあえず学校は続け、来春には公立にする事で落着した。
 学校で先生がいない状況下の部落では、前年の3月に弟と2人で入植していた仙丸隆吉を臨時教員に雇い、教育所の授業を続けたが無報酬であった。翌3年8月31日公立の学校として認可された。仙丸が受けた辞令文は次の様なものであった。
 『公立北海道雨竜郡一已村幌加内尋常小学校付属東北帝国大学雨竜演習林2特別教授場代用教員 月俸14円』
 当時の一已村で最寄りの学校は幌加内尋常小学校(沼牛小の前身)で、その特別教授場となったのである。第1特別教授場は雨煙別の大学2号(学林小の前身)にあった。
 教授場の名前がこの様に長かったので、仙丸は子供達と相談して『北星』と名付けたと後に語っている。大正6年、仙丸は勧められて教員免許取得のため、札幌師範学校講習科に入校するため離任した。一時女先生が授業を繋いだが、同年6月浦臼校から小椋泰弥が赴任した。翌7年幌加内村独立を機に北星尋常小学校と改称された。多度志村から引き継がれた校舎面積は40坪で、時の児童数29人であった。昭和2年5月、近文第3や納内校で訓導を歴任した仙丸が、3代目の校長として赴任した。翌3年に雨竜川の渡船場に待望の橋が架けられ、交通の便が大きく改善された。翌4年の春、対岸の学校が高等科を併置し、添牛内尋常高等小学校になったのを機に、学校の合併話が進んだ。同年6月30日北星尋常小学校は閉校し、16年の歴史に幕を下ろした。以後はこの校下は添牛内の区域となった。

 2校が合併した翌昭和5年に校舎の全面改築を行い、11月30日に5教室と教員室が整った。尋常科4学級、高等科1学年の編成で、児童数は265人を擁した。その後の児童増は激しく、11年には330人余を数える状況に至り、この年に校舎の西側に2教室を増築している。
                              「母校のあゆみ」その2.に続く      

   参考資料 : 幌加内村史 幌加内町史 新幌加内町史
      添牛内小学校「教育目標」 ●じょうぶな子 ●よく考える子 ●心の豊かな子 ●よく働く子

この記事へのコメント

カムシュペ
2016年03月02日 04:35
先人たちは苦しい生活の中で子供の教育にを第一に考えていたことがわかる資料ですね。添牛内複式学校生徒さまありがとうございます。
戦争後は新しい教育システムが採用されましたが、昔の哲学なり伝統など受け継がれたのでしょうか?勉強した結果世界第二の経済大国になったこともあります。みなしあわせになったのだろうか?
魚屋「たまる」さんの棒はかりが懐かしい
2016年03月05日 08:49
母校の沿革いいですね。改めて歴史を感じ、先人の方々の苦労があってこその学校です。感謝いたします。
話は変わりますが、ある資料(表紙がなくタイトル?)の学校に関する記述です。

1938(S13)年夏、みなさんも職員室の前の写真で知っているでしょうが、あの歳桃多吉(さいとうたきち)先生が雨竜川で生徒たちと泳いでいる時に溺れかかった一人の生徒を助けようとして、先生もなくなったのです。今、雨竜川の岸に二つの石碑が建っているのはその時のことを記念したものです。
やがて、第一次世界大戦がはじまると、学校は国民学校という名前にかわりましたが、戦争も合わって1949(S22)年になるとまた、添牛内小学校となりました。それと一緒に新しく中学校もつくられました。
今は、先生が小学校、中学校合わせて14名、生徒は約270名くらいいますが、年々生徒数が少なくなってきてます。・・・・・
この石碑は今もあるのでしょうかね?
魚屋「たまる」さんの棒はかりが懐かしい
2016年03月21日 10:48
添牛内中学校生徒会発行(第21回卒業記念文集)からご紹介します。タイトルは??漢字2文字で達筆すぎて何と読むのかわかりません。水色の表紙で室内からみた窓際のイラストが描いてあります。
初めに校歌が3番まで記述され(添の文字が入った校章がり懐かしです)、次のページに校長の谷口外江さんのメッセージがあります。
「今年は、落ち着きのない多忙な年でした。新校舎が出来るまでの何か月、校舎の移転の仕事、落成式、中学校開校20周年記念式典、学芸会等、またその前後のあわただしい毎日、雪が降ってようやく新しい学校になじみ、学習も落ちついてできるようになったと思ったら、もうすぐ卒業式という具合で、いつも三学期になると月日の過ぎるものは早いものだ、あれもしたらよかった、これもしたらよかったと後悔ともつかぬため息を漏らしているが、今年は格別そのように思われます。~略~」
以降、教員の方々のメッセージが続きます。
池田さん、萩原さん、細川さん、原さん等々・・・
卒業生、在校生全員?のメッセージと続きます。次回はどなたか教員の方のメッセージを載せたいと思います。
魚屋「たまる」さんの棒はかりが懐かしい
2016年04月03日 09:03
前回の続きになります。

中浜先生「ふるさとに誇りをもって」

先生が添牛内に来たとき、君たちは中一になったばかりで、みな嬉しそうな顔をして迎えてくれたのだが、もう卒業とは早いものです。
福士先生の張り切った号令で、グランドに汗を流したこと、足に豆を出して細川先生に心配をかけた遠足のことなどは、かえって懐かしい思い出になることでしょうが、中三になってからは、毎日毎日がつらい日々だったことでしょう。そして、今、九年間、苦楽を共にしてきた仲間とも離別の瞬間を迎えようとしているあなたがたです。
~略~
人生に余裕を見出す時が来るでしょう。その時は、何をさしおいても「ふるさと」を思い出してください。この美しく雄大な自然を。こんなすばらしい自然を。こんなすばらしい自然を持ったところが今時、果たしていくつあるでしょう。四季の彩りを変える山並み。澄んだ流れに魚たちの群れる雨竜川。広大な畑。純白な雪と数えあげればきりがない。この自然をさらに人の住みやすい平和なものにするのは、君たちの力以外になないことを考えてほしい。
大いなる奮闘を期待しております。ガンバレ!

この記事へのトラックバック