doraneko28回想録「六号の氷橋」

doraneko-28さんの回想録から「六号の氷橋」をご紹介致します。(イラスト付き)
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写真は昭和2年の雨煙別渡船場です。氷橋の写真を探しましたが見つからず、橋梁の歴史から渡船風景を載せました。

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【六号の氷橋】

 昭和24年ころまで六号で冬期間架けられていた氷橋は、他によく見られたような、柴を敷きつめた上に雪を盛り上げて作った氷橋とは、根本的に構造が異なっていて、六号独特のものだったと思う。

 その理由は地形的なもので、一方の岸が高いうえ、もう一方は小川の出口が近く氷が張りにくいためだった。(ほかに適当な場所がなかった)

 そのため、通常12月中旬~下旬ころ氷の張り具合を見て架橋し、毎冬3か月余り利用して氷が解け始めるころ撤収するのだが、誰が考えたものか実に理に叶った構造だったと思う。

 僅かの針金以外は金物も釘も使わず、冬の間澱粉など農産物や、伐採した木材などの搬出に重いバチバチを挽いた馬が通るのだがびくともしない。5号から6号までの住民が利用していた。

 考案者を聞いておけばよかったと今になって思うが…。或いは渡船業者あたりだったのだろうか?

     イラスト入りでの詳しい説明 幌加内町史に残る回想録です

     この機会に我がふる里の橋梁関係について調べて見ました。

【渡船と氷橋】

 添牛内21線の渡船場は、明治43年から「下村直之助」が従事し、その後「今井正一」が引き継いだが、初めの渡船料は1銭であった。

 「今井正一」に代わるころから料金が値上げされて片道2銭往復3銭となった。それから更に役場から片道3銭、往復6銭に値上げを命じられたが、地元受益者は往復5銭を役場に強く陳情するという一幕もあった。

 大正5~6年ころ対岸にワイヤーロープを張り、それにゴンドラのような箱をつり、ひもをたぐって渡るようにしたそうです。その時の料金は1回5銭であった。

 勿論夏場だけであったが、男は自力で紐をたぐって対岸に行けたが、女は時々川の途中で宙づりになって動きがとれず、大声で助けを求めたて岸まで引き寄せてもらった事もあったという。

 渡船が川を渡る随一の交通機関であった時代の夏場はころを利用するが、冬は船を岸辺に引き上げてしまうので、川を渡るには氷橋を利用した。

 氷橋というのは、厳寒期になって川面に氷が張るつめるのを待ち、幅は不同の板を隙間なく張り渡し、その上に「むしろ」を敷き、さらに雪をかけ、毎夜水を打って堅氷となったのを見定めて人馬の交通を許した。
 この氷橋も村営のものは料金を徴収した。


【氷橋の基準となる空知支庁からの指令】

1)賃金は大正5年8月22日付当庁指令第839号を以て許可する渡船賃金基準にするべし。
2)氷橋は危険なき様厳重に施行し常に之を監視し、破損の虞れある個所は直ちに充全の設備を為すべし。
3)夜間は充全なる点灯を為し人、馬車、橇、交通の際指導をなすべし。
4)氷橋通行休止又は廃止の場合は直ちにその旨届出べし。
5)本指令に違背にたるこきは認可を取り消すことあるべし。

  =幌加内町史から抜粋=
      添牛内小学校「教育目標」 ●じょうぶな子 ●よく考える子 ●心の豊かな子 ●よく働く子

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