開校記念に寄せて「思い出」(高橋憲隆先生)

添牛内小学校65周年・中学校30周年記念誌「そえうしない」(昭和52年8月発行)追憶(旧教員)に寄稿せられた「高橋憲隆先生」の「開校記念に寄せて想い出」をご紹介致します。
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開校記念に寄せて『思い出』

現中頓別小学校
  高橋 憲隆

添牛内小学校
昭和19年3月 新任
昭和31年3月 転任

 私が昭和19年4月に着任した当時の校長は、小越広中先生でした。私は新卒新米で、5年生の担任を命ぜられ生徒数約40名だったと思う。当時は大戦中であり5年生は、すでに軍人勅論、一つ軍人は・・・・・・・と暗記させられていた。生徒は小田稔君、三津橋貞夫君以下30数名であり、この組は優秀児の多いクラスであった。
 教科書は、国定教科書で、内容はもちろん軍国主義によるものであった。私もその教育を受けて育ったので何の不振も持たずに、教科書内容には忠実に教えるため、放課後は教材研究に没頭し明日の授業にと努力を続けていた。
 生活指導に於いては躾や行動は、軍隊の様式が即国民のものであった。従って上意下達の原則で実に厳しいもであった。当時の校舎は木造平屋で、普通教室と教員教室だけ屋内体育館、特別教室はなく、体操の時間は廊下を利用していた。
 朝こども達が校門をくぐると、二宮像の前で礼をし、続いて奉安殿の前では、直立不動の姿勢で敬礼をしてから玄関に入るのが規則であった。朝会は毎日廊下で行われた。校長からの訓話があり主に銃後国民の務めや昨日の戦果の様子が話された。その後授業に入ったが、当時の授業は50%、勤労奉仕50%で、春は蕗取り、ぶどうつる取り(軍事用電波探知機)、夏はいたどりの葉取り、クローバーの種子取り、秋は援農いも堀り、冬は松葉取り等が強制的にさせられた。戦争が勝つまでは国民皆兵であった。日用品、学用品の不足を始めとし衣類食糧の不足には、実に苦労したものでした。子どもは食糧不足でろくな物食べていないのによく勤労奉仕に耐えたものだと感心した。
 教師2年目に配給係に命ぜられた。当時物資不足で長靴、上靴、衣類が僅かばかり学校に支給され、それを子どもたちに配給する役である。どの子の衣類や靴も破れていて見るに忍びない状態である。限られた数量をどう配給するか、頭を痛め先輩の先生の指導を受けて配給を行った。考えてみると、親からの憎まれ役であったそれには若い教師が適役であったのかも知れない。配給品の事で上司にたてつき会議の席上、デレキを振り廻し、かみついた血気盛んな時であった。
 回想してみると、当時の子ども達は、物資不足の中に強く逞しく生き、成長した。現在の子どもとは、比較にならない格差があった。全てに恵まれ過ぎている現在の子が、果たして幸せかどうかは別として、戦後の2~3年頃までの学校教育の歩みを回想するとき、管理職にある私にとって、重苦しい心境になって筆を走らせました。


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 写真:着任当初担任をしたクラス 添小33回卒業生(中2回生卒業記念写真)


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お世話になった我が添牛内小学校の校門(写真現在)は、高橋憲隆先生のお兄さん(法隆様)が寄贈されたものです。
      添牛内小学校「教育目標」 ●じょうぶな子 ●よく考える子 ●心の豊かな子 ●よく働く子

この記事へのコメント

muma-43
2014年11月23日 08:55
私共が昭和25年4月添牛内小学校へ入学した時に高橋先生はいらっしゃいましたよ。
私共が入学した時の担任の先生は志村千代子先生でした、後に高橋憲隆先生と御結婚されたようです。
懐かしく当時を走馬燈のように頭の中を駆け巡って参ります。
isao-41
2014年11月23日 09:03
懐かしいですね。

高橋憲隆先生に 何を習ったのかな~!
兎に角 何かは習った記憶があります。

蓮枝先生のクラスを 担当したのが 最初の様ですね。

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