北星が一己村?

「仙丸隆吉先生」(故人)の功績をご紹介しましたが、北星が一己村であった時代について、少々気になり詳しく調べてみました。資料:幌加内町史(昭和46年9月発行)

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 我がふる里、幌加内町が大正7年(1918)4月3日、幌加内村として独立し、戸長役場が設置されるまで本町の地域が母村に所属した明治23年(1890)6月新十津川村所属時代)から大正7年(1918)3月31日(上北竜村所属時代)までの28年間は、本町のもつ地理的条件(位置が空知支庁の北辺にある)や立地条件(山村である)などの理由もさることながら、誠に複雑多岐なたどった原因は、町の中央部を貫流する雨竜川にあったといえよう。
 本町が分村独立するまでに所属した母村は、新十津川をはじねとして深川村、雨竜村、北竜村、一己村、上北竜村、多度志村と前後7ヵ村に及んでいる。しかも、その所属行政区は常に雨竜川を基準としているが、母村所属時代の行政区画の推移を示せば下記の通りである。 


【母村所属時代の行政区画の推移】

【雨竜川の両岸】
新十津川時代(4年間) 明治23年6月~明治27年5月

【雨龍川の東側】(大学演習林地)(北星側)
深川村時代 ( 7年間) 明治27年5月~明治34年4月
一己村時代 (17年間) 明治34年4月~大正 4年4月
多度志村時代 ( 3年間) 大正 4年4月~大正 7年3月 


【雨竜川の西側】(御料地)(新富・添牛内・大曲側)
雨龍村時代 ( 2年間) 明治30年7月~明治32年7月
北竜村時代 (15年間) 明治32年7月~大正 3年4月
上北竜村時代( 4年間) 大正 3年4月~大正 7年4月 

【雨龍川の両岸】

上北竜村時代( 3日間) 大正 7月4月1日~4月3日

大正7年4月3日 幌加村として独立



【仙丸先生(故人)の経歴と行政区】
北星特別教育場(臨時職員) 大正3年9月1日~大正6年6月7日
一己村時代 (17年間)    明治34年4月 ~ 大正4年4月
仙丸先生が臨時教員についた時は、確かに一己村でした。納得!

【大正7年4月3日 幌加村として独立】
 昭和3年に雨竜川の渡船場に待望の橋が架けられ、交通の便が大きく改善された。4年の春、対岸の学校が高等科を併置し、添牛内尋常小学校になったのを機に、学校の合併話が進んだ。同年6月30日に北星尋常小学校は閉校し、16年の歴史の幕を下ろした。以後この校下は添牛内の区域となり今日に至っている。
学校の合併時には、既に行政区が幌加内村になっていた。
(仙丸先生の足跡より)
      添牛内小学校「教育目標」 ●じょうぶな子 ●よく考える子 ●心の豊かな子 ●よく働く子

この記事へのコメント

kuma-43
2014年09月03日 06:24
北星・添牛内を良くしらべてくれましたね、有難うございました仙丸先生の足跡をプリントして娘さんの所へ送っておきましたよ。
isao-41
2014年09月03日 08:19
kumaさん、ありがとう。
メジロ先生にもプリントして送付しました。
先生から頂いたお葉書には・・・
故仙丸隆吉先生には、畏敬の念を以て拝読させて頂きました。添牛内小中学校の教師の大先輩ですものネ。
改めて畏敬の念を捧げたいと思いました。
・・・と記されています。
doraneko-28
2014年09月03日 09:26
随分町村名の変遷があったんですね。
私なら自分の住んでいるところが分からなくなるくらいめまぐるしい感じですね。
私の父は大正4年5月に大学演習林6号に入植したのですが、戸籍簿には確かに多度志村とありました。
因みに、私が子供のころ、泰円澄さんのところを「学田のお寺」照元さんのところは「御料のお寺」とよばれていたことがありました。、

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