合言葉は「いつも元気な添牛内」(上)

平成24年1月11日付、「北空知新聞」一面記事から、添牛内の近況をご紹介します。(上)
(出典:北空知新聞)


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幌加内町・添牛内I・Uターン続々 ベビーラッシュ?
『限界集落』?とんでもない!原宿ですよ。


『限界集落』?とんでもない!原宿ですよ」自治区長は笑みを浮かべた。
「ちょっとしたベビーラッシュなんだ。国内の30戸未満の小集落で、域内の平均年齢が30代半ばなんてそうないよ」 そんな集落が幌加内町にある。


・・・「限界集落」・・・
域内の人口の半分以上を65歳以上のお年寄りが占める現状を指す。冠婚葬祭などの社会的共同生活を営むことができない。地方の多くが該当、またはその予備軍とされている。
幌加内町・添牛内自治区もつい最近までそんな限界集落だった。

幌加内市街から国道275号を20キロほど北上する。エゾマツやトドマツなどの針葉樹の山並みに囲まれるようにその集落はあった。

・・・2012年1月9日、添牛内コミュニティセンター・・・
添牛内自治区の新年会が始まる。
玄関に向かうと20代後半の夫婦が靴をぬぐところであった。夫は赤ん坊を抱いていた。
会場の扉を開けると幼児の歓声に包まれる。幼稚園の遊戯室と錯覚するはど。
域内に住む4人に1人が中学生以下という集落である。

1912年(明治44年)現在士別市温根別町からの入植が添牛内の歴史の始まりとされる。
小川雅昭自治区長によると、畑作地帯として栄え、1955年(昭和30年)には294戸・1730人が暮らしていたという。
添牛内地区は、士別方面へ抜ける国道239号と深川から朱鞠内へ北上する国道275号がクロスする要所でもあった。
66年(昭和41年)には、13に点在していた「澱粉工場」を当時の添牛内農協が主体となって集約操業する。添牛内は、ひと時の栄華を得る。 だが、その後人は減り続けた。
そのため、76年(昭和51年)、「新富」「添牛内」「北星」「大曲」の4地区が合併し、現添牛内自治区となる。
それでも極寒の環境や時代のすう勢とともに離農はやまなかった。
添牛内は限界集落として崩壊の道を進んでいた。

・・・98年(平成10年)転機が訪れる・・・
士別の農機具メーカーに勤める仙丸孝司さん(35)が、農業を継ぐためUターンしてきた。それが始まりだった。
次々とI・Uターン者が添牛内に来るようになった。
「なぜ?それはぼくにも分からん。この添牛内が培ってきた伝統というか、風土じゃない」
新年会に集う面々の明るい表情を見回し、小川自治区長は笑みを浮かべた。
現在14戸・41人が暮らす。

ただ、若い人が集まっただけではない。高度成長と引き換えに置き忘れたもの。助け合う長屋的な取り組みがI・Uターン者が核となって自然な振る舞いとして紡がれているという。協働がこの小集落で具現されている。

・・・多くの地方公共団体がその具現を目指す協働・・・

自治体の多くが具現の一番ネックとしているのが「自助」精神の醸成。自治精神だ。
開拓以来、厳しい自然の中で史を重ねた添牛内では自助・自治精神が鍛えられ、脈々と受け継がれてきたという。
旭川から移住した20代の男性が言う。
「近所の距離は遠いけど、心の距離は近いよ・・・」

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(下)に、つづく。
資料提供:今井正昭様 北空知新聞社様
      添牛内小学校「教育目標」 ●じょうぶな子 ●よく考える子 ●心の豊かな子 ●よく働く子

この記事へのコメント

isao-doh
2013年08月06日 14:54
平成25年8月1日北海道新聞(夕刊)にも添牛内自治区の近況が掲載されています。
過疎化の我がふる里が今、変貌を遂げ様としています。

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